小さな頃からウチはなんで茶碗屋なんだろうと不思議に思っていました。ともだちにも説明できないですし、時代遅れの古い商売だなと思っていました。
そんな時、たまたま本棚にあった古い本をパラパラ読んでいたらご先祖様のことが書いてありました。とてもおどろきました。
ずいぶん詳細にご先祖様のことが書いているではありませんか。ようやく納得がいきました。
暇つぶしに読んで頂けれは幸いです。
参考文献
二羽弥 編『九谷焼330年史』寺井町九谷焼資料館発行、1986年。
埴田の太吉 ( 山元太吉)
太吉は子どものころ、 十村役田中勘太郎のところへ子守り奉公にでた。 子守りだけでなく、 家の中やめぐらの掃除もさせられた。
そのころ、 前田殿さまは下じもにも焼物の製造をすすめていた。
太吉は背中にねんねをおんぶしながら、まき割りをやらされた。
そこで、主人に暇をくれと願いでた。 しかし、いくら頼んでも暇はもらえない。とうと うしびれを切らして十村役の家から逃げ出て小野窯の手伝いをする
本江での働きぶりは抜群で、たちまち親方の信頼をえて、
そのうち、 生まれた在所埴田へ帰って独立しようと願い書きを十村へ出した。 しかし、 なかなか許可が下りない。 当時は年令30才にならなければ営業許可は下りないのだが、
ところが、
このようにして、ようやく自力で営業できるようになったのは、
めでたしめでたし
九谷焼とは、石川県南部の加賀市,小松市,金沢市,能美市で生産する陶磁器です。 伝産法に基づく伝統的工芸品に指定されております。
17世紀の半ば頃、大聖寺藩(石川県)の領内にて、良質な陶石が発見されたことにより、藩主前田利治公の命によって磁器の生産が始まりました。
陶石の産地となった九谷村に、磁器を焼くための窯を築いたことで、その地名にちなんで「古九谷」と呼ばれました。 古九谷は加賀百万石文化の、大らかさときらびやかさを合わせ持つ、独特の力強い様式美を作り上げましたが、17 世紀の終わり頃、突然作られなくなってしまいました。廃窯の理由は諸説ありますが、真相はいまだ謎に包まれております。
その後、19世紀に入ると再び九谷焼が焼かれるようになり(再興九谷)、木米風、吉田屋窯、永楽窯等数多くの窯が特有の画風を作り出し、現在に至っております。
引用元
・伝産法(伝統的工芸品産業の振興に関する法律)について
「一定の地域で主として伝統的な技術又は技法等を用いて製造される伝統的工芸品」の「産業の振興を図り、国民の生活に豊かさと潤いを与えるとともに地域経済の発展に寄与し、国民経済の健全な発展に資することを目的」としています。
伝統的工芸品は、我が国の伝統的工芸品産業は、伝統的技術・技法を伝承するとともに、国民生活に豊かさと潤いを与えてきた産業であり、地域の資源・技術を基盤に、もの作り産業を形成し、長い歴史・風土の中で培われ、地域経済の発展と、雇用の創出に貢献しています。
このため、経済産業省の支援は、その文化性に着目した技術・技法の保護・保存をすることのみを目的とせず、伝統的工芸品産業を産業活動として維持・発展することに主眼を置き、支援を行っています。
工芸品の産地組合等からの申請に基づき、指定要件を満たすものを経済産業大臣が「伝統的工芸品」として指定します。指定を受けた産地では、振興計画を作成して経済産業大臣の認定を受けた後、その振興計画に基づいて事業を行うのに国から補助を受けることができます。
狩野派の名匠・久隅守景の指導を受けたといわれるもので、青(緑)・黄・赤・紫・紺青の五彩を使い、絵画的に完成された表現力で大胆な構図、のびのびとした自由な線描き、豪快で深い味わいが魅力となっています。五彩のうち赤を用いず、塗り埋める青手もあります。
引用元
古九谷が廃窯されてから約百年後、加賀藩営で金沢に春日山窯が開かれました。京焼の名工・青木木米の指導により、全面に赤をほどこし、人物を主に五彩を使って描き込んであります。 中国風の上絵といえるでしょう。
青手古九谷の塗り埋め様式を再興したもので、赤を使わず青(緑)・黄・紫・紺青の四彩を使っています。模様のほかに小紋を地紋様風にして、器物全面 を絵の具で塗り埋めた、重厚さのある 作風で独特の雰囲気があります。
古九谷・吉田屋・赤絵・金襴手のすべての手法を間取り方式で取り入れ、これらを和絵具に洋絵具を加え綿密に描き込んだ彩色金襴手です。明治以降の産業九谷の主流となった作風です。